「なぜ?」と問う文化
ニュースを見ていると、
いつも私は、同じ言葉に引っかかる。
それは、
何か事件が起きると、
「なぜ?」それは起きたのだろう。
と問うことだ。
例えば、
「なぜ?噴火は予知できなかったのだろう。」
「なぜ?殺さなければならなかったのだろう。」
「なぜ?誰も気付いてあげられなかったのだろう。」
事件が起きる理由は、いつも一つだ。
起こるべくして起きる。と思う。
予知できないものは出来ない。それだけだ。
そこには、殺人が起きたという事実があるだけだ。
誰も気付かなかった。
だから事件になってしまった。
それだけだ。
でも、それを「なぜ」と問わずにいられない。
なんだかそれが、神経症的思考にとても似ている気がする。
事実を直視することが出来ず、
何か理由があるように思い、
それを究明し、取り除きさえすれば、
次は防げるとでも思っているかのように、私には聞こえる。
「なぜ?」そう聞くたびに思う。
「理由なんてどうでもいいだろ。」と。
それより、その悲劇をただただ直視する。
そのことの方がよっぽど大事だ。
と、いつも思う。
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