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うちのニャンコ

我が家には、柴犬のほかに、猫が一匹いる。

普通の日本猫だ。

このネコは、近所の公園に住んでいた「猫おじさん」から譲り受けたネコだ。

猫おじさんは、たくさんの猫と公園の一角に暮らしていた。

今は、市の方針だかなんだかで、そこに住めなくなってしまった。


私がうつだった時、よくその公園に行った。

大きなグランドがあり、そこのベンチにいつまでも座って過ごすこともあった。

自然がたくさんあり、車の音が届かず静かなその公園でよくお昼を

一人で食べた。

帰りはたいていおじさんのところに寄った。

おじさんと猫の話をしているとホッとした。


ある日、おじさんの猫が仔どもを生んだ。

私が猫がほしいというと、2ヶ月は待ってくれと言う。

2ヶ月くらいは母猫の初乳をしっかり飲ませないと、丈夫にならないのだ。

「いい子がおるから、そいつをあんたにをあげるから。」と

おじさんは言ってくれた。

私はその2ヶ月間で、何とか家族を説得した。

そうしてうちに来たネコが、ミーちゃんだ。

顔が小さく、足と尻尾がスラーっと長い。

まるでネコ界の安室奈美恵だ!

(今はお腹がタプタプで安室ちゃんではなくなってしまったけれど)

腹毛が白く、背中がトラトラ。

とても可愛いのだが、とても気が強く人に触られるのが大嫌い(特に女子が嫌い!)

なので、猫好きとしては抱っこしたいのだが全然できない。

時々無理やり抱っこして、ばりかかれている。

決してこちらの都合で抱っこしてはいけない。


では私が嫌いなのかというと、そうでもない。

私が出かける時は、その様子で分かるらしく、階段を降りて玄関に向かうと、

待って~!と一緒になって階段を駆け下りてくる。カワイイ。

トイレに入ると、トイレの前で鳴き続け、壁をバリバリやったりする。カワイイ!

でもトイレから出て、ミーちゃん!と抱っこしようとすると、ピューっと逃げてしまう。

うーん、ツンデレもいいところだ。


ミーのいつもの定位置は、私がうんと手を伸ばしたその数センチ先だ。

いつもその手の届くか届かないかの距離にいる。

私が寝ている時だけ、安心してすぐ横に来て添い寝をしてくれる。

それでもちょっと嬉しい私である。




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集談会

少し前まで、私は集談会がとても苦手だった。

何度行っても、うまくなじめなかった。

今でもまだ少し苦手意識はある。

会議室の中でちゃんと座ってさあ、悩みを話し合いましょう。

というシチュエーションがど~しても苦手なのだ。

もう今はそれに慣れる事をあきらめたけれど。


それでも私は17年途切れ途切れでも、集談会に行き続けた。

それはなぜだったんだろう?


悩みを話してスッキリした。とか、

集談会で癒された。元気をもらった。とよく聞くが、

私にはあまりそういう体験がない。

お世話になっておきながら、こんな言い方も辛いのだが、

帰って来ると、ぐったりと疲れて立ち上がれない事も多かった。

今日は何のために行ったのだろうと、ストレスを抱えて帰って来た日もあった。

もちろん、いいお話が聞けたなぁ、と思う時もあった。

子育てが一段落して、マメに行くようになってからは、

私にとっては、人前で話す、人と話す練習の大切な場だった。

マメにいくようになると、メンバーさんと親しくなっていき、

日頃から個人的に連絡を取り合ったりするようにもなり、

ますます集談会に出かけるようになり、その辺りからは

会いたい人がいるから、あの人の話が聞きたいから行くようになった。

集談会は、学びの場であること以上に、

私にとっては大事な人間関係の場だった。

自分の一番辛い部分をさらけ出して付き合える、貴重な仲間だった。

人との関係が出来ていく中で、ここにいてもいいんだと居場所ができ

お客さん感覚から、主体的に参加するようになり、

そういう中で、いろんな話をもっと拾っていったと思う。


そして今は、やっぱり大元の森田療法の学びが好きだから行っている。

みんなの話を聞き、話すことで小さな気付きが一個でもあることが

面白くて行っている。

17年間、苦しみながら嫌々でも通った理由は、やっぱり分からないながらも

森田の理論に何か救いを求めていたからだと思う。


集談会も小さな社会なので、いさかいやいざこざも起こる。

それらもリアルな学びだ。

みんな神経質なので、こだわりも強いし、我も強い。

でも我慢強く、より良くしていきたいという気持ちもきっと人一倍ある。

泣いたり笑ったり、怒ったり慰めあったりしながら、人間臭く関わりあっている

集談会が私はやはり好きなのだと思う。



神経質思考

ブログを始めて、一月半。


いろんな雑念が湧いてくる。


こんなペースでいつまで書けるのだろうか。

一年後には飽きていたらどうしよう。(私はかなりの飽き性だ)

一年どころか、半年、いや3ヵ月後には飽きてしまったら...

とか考え出す。

飽きた時は放置しておけばいいのに。


他の人のブログを読んでいて、私のところにもお問い合わせや、

相談ごとが舞い込んだら、どうしよう!!とか考え出す。

取り越し苦労もいいところである。

どれだけ自意識が過剰なのか。

自分でも書いていて恥ずかしくなる。

でもその瞬間は真剣に悩んでいる。


自分の馬鹿さ加減を、恥を忍んで公開することで

少しでも役に立つなら。

という事を旦那に言ったら、自分のブログが誰かの役に

立つと考えているところがめでたい。というような事を言われた。

旦那は地にべったりと足がついているような人である。


だいぶ自覚できるようになってきたが、

神経質は、自分を何か「特別」だと考える傾向がある。

(別にそれは悪いことではない。いい事でもないが。ただ自分はそういう思考傾向があると

自覚しているだけでよい、と森田先生は言っている。)


私が、世の中に森田を広めたいんだ!!と熱く語っている横で

旦那は、やれやれまた大げさな事を言い出したと、あきれて右から左へと聞き流している。

1,2年経つ頃、やっと私にもその意味が分かるのだろう。

平等感


先日集談会に行った。

グループに分けて行う体験交流で、うちと同じ年頃の子どもを持ち

子供の事で悩んで来た母2人と同じグループになった。

私も含め、二人ともとても自分を責めていた。

特に一人の方はその日初めて集談会に来た方で、ひどく自分を責めておられた。

自分の育て方、今までの自分の生き方をも反省して...

人の話を聞いていると、そこまで責める必要はないんじゃないかな。

と冷静に思う。

でも責めてしまう気持ちも痛いほどに分かる。

母は(おそらく父も)そうして、子どもに何かあると自分を責めるものなのだと

その日は痛感した。


思えば、あまり集談会で子どもの事で悩み、自分を責めている人を見たことが

無かったように思う。

いや、見ていたのに共感を持てなかったのかも。

同じ悩みなのに、自分の方がもっと重症な悩みで、他の人のことは

一般的な悩みだというふうにでも思っていたのだろうか。

...そうかもしれない。

前にブログに「子どもの事実が受け入れられない」という事を書いたが、

受け入れられるようになることがゴールではない、と何となく分かった。

子どもを育てるという事は、苦労や苦悩が伴って当たり前なのだ。と何か腑に落ちた。

今の私の状態は、何かの途上ではなく、思春期の子を持つ母親として、当たり前の状態なのだ、と。


今までだって分かっていたつもりだったけれど、

自分は欝や神経症があったから、ものすごく苦労したように思っており、

子育ての純粋な苦労さはどう思っていたのだろう...

人のそれは、とても軽く受け止めていなかったか。

私は神経症とうつの中でいろいろやれなかった分、今子ども達にそのいろいろが

噴出していると思う。

それも含め全部当たり前なことなのだ。


同じグループのお二人は、今まではわりとお元気で過ごしてきたようで、

子どもに問題が起き、悩むようになって、森田を知ったと言う。

そういう人でも私と同じように、悩み苦しみ、自分を責めている。

子育てとは、そういうものなんだ、と分からないけど分かった。

そして誠実で責任感のある親であればあるほど、子供を通して自分の生き方を問われている。


二人の母と私の間には多少の違いはあれど、

子供と向き合う母という点では何も変わらなかった。

私もお二人の苦悩がよく分かって、

お二人も私が神経症の中で子育てした辛さを、大変だったね、といってくださった。


「子育てって大変だね~、小さい頃はただただ可愛いだけだったのに~」と、お二人。

私は小さい頃も大変だったな、と心の中で思ったけど、差別感は感じなかった。

それより、子供と向き合うって大変だ!でも頑張ろう!とお互いを慰めあい

励ましあえた平等感のほうが強かった。

有意義な集談会だった。


六花の由来について

六花ちゃんの「六花」(ろっか)は、雪の事です。

雪の結晶が六角形だから、そう呼ぶのだそうです。


中島みゆきさんの歌に「六花」という曲があり、

とても好きな曲なので、ブログのタイトルに使わせていただきました。

   「六花」

   広い空の中には 罪もけがれもある

   広い空の中には 何もないわけじゃない

   広い空の上から さまよい降りてくる

   泣いて泣いてこごえた 六つの花びらの花

   六花の雪よ 降り積もれよ

   白く白くただ降り積もれよ

   六花の雪よ 降り積もれよ 

   全てを包んで降り積もれよ


よく空は、広く大きく青く、どこまでも美しいけがれのないものの象徴のように

言われますが、みゆきさんは空には罪もけがれもあり、何も無いわけじゃないと歌っています。

そこに少し違和感を覚える私ですが、

美しく見える空、きれいに見える雪にも、けがれがあり、

悲しみや寂しさや孤独を包んでいるよ。というこの歌にとても

心惹かれるのです。



柴犬タロー

うちは犬を飼っている。

柴犬だ。名前はマリ。

毎日散歩に連れて行く。

近所を10分ほどだが、毎日は大変だ。


散歩をしてると、いろんな犬に行き交う。

その中で、私の大好きな犬が、柴犬のタロー君だ。

タロー君は、柴犬にしては大きな犬だ。

タローはおばあちゃんが連れている。

そしてその後ろに時々杖をついたおじいちゃんもついて来る。

タローはかなりの高齢で、白内障にかかり両目が完全に見えていないそうだ。

顔を覗き込むと、なるほど両目とも真っ白だ。

だけど、しっかりと前を向いて見ようとする意思があるみたいに

いつもタローはしっかり目を見開いている。

若い頃は体の毛はもっと茶色だったと思うが、

今は白に近いうすーいクリーム色だ。犬も白髪になる。

タローの足取りはとても遅い。

少し肥満だし、見えていないし、高齢だから。

一歩一歩地球を踏みしめて歩いている。

でもおばあちゃん達も高齢だから、歩調はちょうどいいようだ。

私達がくるくるっと一周してくると、さっきから数メートルしか移動してなくて

2回挨拶した事もあった。

私はそんなタロー達が好きで、ついつい見かけると近づいて挨拶をする。

おばちゃんもいい人で、犬好きで、つい犬の話で長くなる時もあるが、おじいちゃんも

にこにこしながらお話が終わるのを待っていてくれる。

タローのおばちゃんだけが、マリの事を「マリコちゃん」と呼ぶ。

マリもタローの周りをクルクルし、匂いをかいだりするが、

タローはいつもそんな事はどうでもいいというように

きりっと前だけを見て、いつも毅然としている。

とても癒されるご一行様だ。


一度細かい雨の降る日に3人を見たことがある。

タローは合羽を着せられて、いつものようにゆっくり3人で歩いていた。

なぜこんな日に散歩に出たんだろう?

その時私は車に乗っていたので、聞けなかったが

でもそんな事タローにとってもおばちゃんたちにとっても

普通のことなのかもしれない。


そういえば最近タロー達を見ない。

どうしてるのかな。

元気にしていてほしいな。


心の訓練 「自然に服従し、境遇に従順なれ」

今、私には子どもの事で、受け入れがたい現実がある。


思春期。大人でも子どもでもない、微妙な時期。

不安で揺れ動いたり、自分が嫌になったり。自暴自棄になったり...

自分もこの時期に発症したし、一番多感な時だというのは分かっている。


このまま私のように神経症とかになってしまわないだろうか、とか。

当時の自分を思い出して、不安で心配でたまらなくなる。

いつまでこういう状況がつづくんだろうか、とか。

考え出すと、怖くなる。


怖くなると、考えるのをやめようとしたり、

大丈夫だと言い聞かせたり。

プラスな事を考えようとしたり。


そうやって思考に陥っていく...


こういう時私は、現実をよく見るように意識している。

 

私の中で、

「現実を受け入れる」のと「現実を見る」のとはぜんぜん違う。

私は今、子どもの辛い現実を「受け入れる」事は出来ない。

どうしても心は拒否してしまう。

残念だが、受容もできないし、まあ仕方ないね、と笑いとばす事もできない。

そういう風に、大らかに笑い飛ばせる大人になりたかった。


でも今の私には出来ない。

今の私に出来ることは、

ただ現実を「受け取る」「そのまま見る」事だ。


受け入れ難い事実を直視する事さえ、私は辛い。

でもこらえて、何度も何度も見るようにしている。

それは私にとっては心の訓練だ。


頭の中での思索、「ああなったらどうしよう」「こうなったらどうしよう」

には際限がない。

どこまでも拡がる。

そして厄介なことに、その不安を拡げないよう工夫すればするほど、

その闇は拡がっていく。

思考を思考で操作しようとしても、イタチごっこなのだ。


事実は、いつも目の前にある。

分からなくなったら、いつも事実に戻る。


「受け入れ」られなくていい。

「受け取る」だけでいい。

それでまず地に足が着く。

現実と乖離(かいり)してはいけない。

現実を捉えている時、実際的に行動することが出来る。


やになる気持ち、不安に押しつぶされそうになる気持ち、

もういい加減にしてよ、という気持ち。

そして私の長年の神経症やうつの影響だ、っていうとても申し訳ない気持ち。

それら気持ちの事実も大事にしつつ、

目の前の子どもの現実も、逃げないでちゃんと見ていきたいと思う。


中島みゆきさん

中島みゆきさんの曲には、どういう心境でかいたんだろうという歌がたくさんある。

私がまだ症状がきつくて毎日生きるのが大変だった時、

まるで私の歌みたいだと思った曲がある。

「重き荷を負いて」という曲だ。


手のひらの傷口を握るのが精一杯

愛を拾う余裕も無く、泥を拾う余裕も無く

ひび割れた唇は噛みしめるのが精一杯

過去を語る余裕も無く、明日を語る余裕も無く


重き荷を負いて坂道を上りゆく者一つ

重き荷は重く、他人には何ひとつ見えはしない

        (「重き荷を負いて」より)


やっぱり症状もうつもきつかった時、人ごみに酔いそうになりながら

みゆきさんのコンサートに行った事がある。

2階席の最前列で、みゆきさんは小さかったがよく見えた。

みゆきさんが「ファイト!」を歌ってくれて、もうだめだった。

いろいろこらえていたものが、涙、涙、涙でもうみゆきさんが見えなかった。


暗い水の流れに打たれながら、魚たちのぼってゆく

光ってるのは傷ついて、はがれかけた鱗が揺れるから

いっそ水の流れに身を任せ、流れ落ちてしまえば楽なのにね

やせこけてそんなにやせこけて、魚たち上ってゆく

  ファイト!

闘う君の歌を、闘わない奴らが笑うだろう。

  ファイト!

冷たい水の中を震えながらのぼってゆけ

        (「ファイト!」より)


「ファイト!」は今でも私の大事な応援歌だ。





六花ちゃん洗濯物を干す。

テレビを見ていたら、洗濯物の干し方についてやっていた。

効率のいい干し方を教えてくれるというのだ。

興味深く見ていた。

洗濯機から手に取った物の順で干すのではなく、

ハンガーはハンガーでまとめて干し、

次にピンチはピンチで干す。

同じ動作が続くから効率がいい、といった内容だった。

私は後日試してみたが、どうも窮屈でいけない。

頭で考えて干そうとするからだ。

やっぱり、心のままに干すのが一番だ。

私の干し方はこんな風だ。

だいたい、大きい物から干す。

そうすると、かごの中身がどんどん減るので、

すごいはかどっているような気持ちになり、勢いが付く。

後は気分しだいで、ハンガー物を干したり、ピンチ物を干したり。適当。


物事は、決めた通りなかなかやれないものである。

一週間くらい続いても、段々窮屈になってやめてしまったり。

なるべく決め事は少ないほうがいい。

決めたように進めるのは、疲れるのだ。

頭で考えた通りに進むことは少ない。

その時々で、体調も気分も、洗濯物の量も、天候も

事細かに違うのである。

そこに四角四面の理屈を当てはめようとしても、土台無理なのである。

その無理を押し通そうとすると、努力が必要となり、疲れるのである。


心のままに干せばいいのだ。

天気がいい日は、風に吹かれながらのんびり干すかもしれないし、

にわか雨が来そうな日は、取り込みやすい工夫をしながら干したりする。


干してる途中で疲れてしまったり、飽きる時がある。

全然違う用事を思い出したり。

気にしなくていい。

頑張って干し切るのではなく、その心のままに道草を食えばいい。

「休憩は仕事の転換」だ。

家事のいいところは、そういうことが自分でプロデュースできるところだ。


心のままにやっていると、作業効率がいい。波に乗ればあっという間に片付く。

無理無理頑張ると疲れるばかりで、ちっともはかどらない。

洗濯物は午前中にしなければ。というのもかくあるべしだ。

今時期、お天気がいい日は、昼ごろ干したって充分に乾く。

だから昼くらいまでほかってある日もある。

夕方にちゃんと乾いていればいいのだ。

「実際的」であることが大事だ。

洗って乾けばいいのだ。

お日様と風に洗濯物を乾かしてもらう「洗濯」が私は好きだ。



とらわれてしまったら

辛いとき、

しんどいとき、

とらわれる時、

不安の波にもみくちゃにされて、自分を見失いそうになると、

私は藁をもつかむように何かにしがみつこうとする。

「大丈夫だ」などその時一番効力のある言葉を唱え続けたりする。

その場はしのげるが、次の場もしのぐためにそのお念仏を唱えることになる。

いつもその言葉とともに生きることになる。

神経質者にはよくあることだ。

そうなると、それはもうとらわれだ。

人によって、とらわれるものは違うが、私の場合はそんな感じだ。

そのおまじないが無いとどこへも行けなくなる。

心は自由な動きを失い、地に向かって堕ちていく。

そうなると、視野が狭くなり、適切な判断は出来なくなっていく。

独りよがりな、その場しのぎの判断になっていく。

そうなってしまったら、

...

また一から出直そう。

しがみついていた物をそ~っと手放してみよう。

ドキドキする。不安だ。

命綱を放してしまったみたいで。

でも大丈夫。

その不安定な感じをじっと感じてみる。

そうなんだ。生きるって不安なことなんだ。

安定の人生なんてどこにも無いんだ。

保障された人生なんてどこにも無いんだ。

人生は無限に外に向かって広がっていて、どこまでも不安定なんだ。

それでいいんだ。

だからどんな風にでも形を変えて伸びていけるんだ。

不安定の中で安定するとき、

心は自由に動き回り、自由に発想し、

その時人は無限に羽ばたいていけるんだ。


全~部、森田先生が教えてくれた事。

プロフィール

六花

Author:六花
ブログへようこそ。
六花と申します。
10代の頃から神経質症に陥り
30代でうつになりました。
今は森田療法のおかげで、元気に暮らしております。
そんな体験からこのブログを始めました。
日本由来の森田療法を多くの方に知ってもらいたいと願っています。

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