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事実唯真

「事実唯真」は森田正馬先生の言葉です。

森田先生は、事実を何より大切にされました。


例えば、コップに水が半分入っているとします。

「もう半分しかない。」というのは、ネガティブ思考です。

「まだ半分もある。」というのはポジティブ思考です。

それに対して、

「コップに水が半分入っている。」というのが、事実思考です。

森田療法は、事実思考です。

前者は同じ水の量なのに、人の考え方ひとつで、少なく思えたりまだたくさん

あるように思えます。

しかし、事実思考で見るとき、どんな感情で見たとしても状況は変わらないのです。

神経質傾向にある人、ナーバスな人達は、物事をネガティブに捉えがちです。

そんな時は少し冷静になって、事実を見るようにしてみませんか。


それを自分に当てはめると、

ネガティブに見れば、「人はあんなにやっているのに、自分にはこんな事しかできない。」

ポジティブに見れば、「自分はこんなにいろいろ頑張ってやっている。」

事実思考で見れば、「自分はこれとこれをやった。これとこれは出来ていない。」


ネガティブな人は、出来ていない部分ばかりを見、ポジティブな人は出来ている部分だけを評価しようとします。

しかし事実は、出来ていることもあり、出来ていない事もあり、

それ以上でもそれ以下でもありません。それがその時の自分の事実です。

出来ていることを過大評価する必要もなければ、出来ていないことをことさらに嘆く必要もありません。


今の自分の状態を自覚するだけでいいのです。

森田療法の大事な考え方の一つです。

私は神経質です。

私は神経質な人間である。

繊細であり、細かいことに気がいく質なので

日々色んなところで、怒りを感じたりしている。

それが自分に関係のないことでも、理不尽なことは正そうとする。

かなり面倒臭い性格だと自分でも思っている。

逆にいい事があればすごい嬉しくなって、生まれたことに感謝したいような

気持ちにもなる。

要は感情の揺れ幅が、とても広いのだと思う。

心が広いのとはちょっと違う。

自分にも厳しいが、人にも同じように厳しいのでどちらかと言えば

心は狭い。いい加減にまあいいやと許せない。

何事も突き詰めないと気がすまないところがある。


私は若い頃、いや5年位前まではそんな自分が嫌いで仕方がなかった。

でも今は、森田療法のおかげで神経質のいい面を生かせるようになってきて、

神経質でよかったとさえ思っている。

神経質は、仕事が丁寧だ。(⇔こだわりだすとヤバイ)

そして仕事はきっちりやる。(⇔完璧を目指しだすと時間ばかり掛かって疲れる)

人あたりがよく、強い物言いはしない。(⇔人の顔色をうかがい過ぎて必要な事もいえない時もある)

逆に時々正義感で強く相手を制してしまう。(⇔内省性があるので、段々学べる 予定)

よく場の空気を読み、周りをよく見ている。(⇔人ごみに行くと疲れる)

など、表面と裏面がある。


森田先生は、神経質の性格について研究した。

神経衰弱と診断された廃人同様の人達をたくさん救った。

たくさん著書も残してくれた。

森田先生。本当にありがとう。

ママチャリ温暖化現象

また自転車のお話ですが、(だんだん森田療法から離れていっている...笑)

最近のママチャリの進化は目を見張るものがあるなぁと思う。

特に子どもを乗せる用のだ。

子どもの座席の背もたれが空へとそびえている。

まるでチャイルドシートを自転車に装着しているようだ。

守りすぎじゃね?

あれでだいぶ自転車重くなってない?

まず見た目が悪い。

機能性のいいものは、見た目(デザイン性)も優れているものだという

私の勝手な思い込みはあるが。

にしても...

私なら、あそこまでして装着しない。

さらにそれにビニールの温室的なのをつけてる人も少なくない。

多分雨の日だったり、寒い風にさらされては子どもがかわいそう的な発想だとは思うが。

私が子どもだったらあんなの息苦しくなりそうで嫌だ。

「子どもは風の子」という格言は今はないのか?

風を感じるのが自転車のいいところではないのか?

少々の雨はお母さんとキャーキャー言いながら、家路につくのも思い出ではないのか?

全てのものから子供を守ろうとするな。

少々の痛みや苦しみは、子どもの心を成長させる。

子どもの優しさをはぐくむ。必ず。

守ることより、寒いね。暑いね。お腹すいたねって一緒に泣いたり笑ったり

することの方が大事だ。




自転車へのこだわり

私は普段自転車をよく使う。

俗に言うママチャリだ。

私は自転車には結構お金をかける方だ。

買うときはいいやつを買う。

今乗っているのはブリジストンのいいやつだ。赤茶色でとても気に入っている。

もう5年半乗っているが、全然どこも悪くなっていない。

タイヤの空気はマメに入れる。走り方がぜんぜん違うからだ。

空気を入れたばかりの自転車は、電動アシスト付きかと思うほどよく走る。

時々、街で自転車の後輪がぺしゃんこのまま乗っているのを見ると、

自転車が悲鳴を上げているようで、可哀想になる。

先日、空気を入れるときにタイヤのゴムが劣化してひびが入っていたので、

タイヤ交換をした。

これでまだ5年、10年乗れるな、と思うと嬉しかった。

そう自転車は10年くらい平気で乗れる。だからいいやつを買った方が、かえって安いのだ。

時々油もさす。KURE556だ。

可愛がってやると物は期待に応えてくれる。

あと10年この子に乗って、次買い替える時は私も50うん才。

その時は電動自転車を買っちゃうのかな...。

いやいや。

この子が壊れるまで10年でも15年でも乗って、

自分が足が上がらなくなって、大きな自転車に乗るのが辛くなった時に

買い替えよう。

小輪車に!

乗り降りが楽チンだから。

近所の90近いおじいさんがクルクルと乗り回しているのを

見てそう思った。




車内での携帯電話はご遠慮ください。

前に公共交通機関のバスに乗ったときに、携帯でずっと喋っている若い女性がいた。

時々不意にかかってきてしまい、電話に出る人は見かける。

でも申し訳なさそうに「今バスだから、降りたら掛け直すね。」

とか言ってすぐ切る。

そう。「電車やバスの中での通話はご遠慮ください」だからだ。

でもその女は、声を抑えてはいるものの、なぜか切る気配がなく

談笑している。緊急な用事でもなさそうだ。

平日の15時ごろ。

客はどっかへ行った帰りの高齢者がほとんど。

でも基幹バスなのでわりと人は乗っていた。

女は私の斜め前に向かいあう形で座っていた。

わりと静かな車内で、女は一人で誰かと喋り続ける。

逆にすごい勇気だ。

周りの人たちは無表情で感情が読めない。

私は段々イライラしてきた。

何で切らないの?もう10分は経っている。

アホなの?運転手も注意しろよ。

私は、その女が電話を切らないわけをいろいろと

考えめぐらしていた。

そしてついに一つの納得できる理由を見つけた。

この女はきっと「車内での通話はご遠慮ください」のルールを知らないんだ!と。

普段交通機関を全く利用しない人ならそれはあり得る。

そうかそうか。それなら仕方がない。

でも私はそれでおいそれとその女を許すような人間ではない。

曲がった事が嫌いなのだ。よくも悪くも。

知らないなら、教えてあげないと。と思ったのだ。

でも見ず知らずのこの人に、いきなり物を注意するのもいざというと

勇気がいるものだ。

もうすぐ私はバスを降りる。

降りる前に一言教えてあげよう。

そう決心し、私は降車のブザーを押した。

そしてバス停が見えてきた所でその女性のところへ行き、

肩をぽんぽんと軽く叩き、「あのね、バスの中は通話禁止ですよ。」

とできるだけ冷静に優しく教えてあげた。

1回目は聞こえていないようだったので、2回言った。


果たして、女は電話を切ることは無かった。

電話を持っていないほうの手で私を制するように、まあいいからいいから的なしぐさをし、

頭を2,3度下げた。そして私から顔を背けて電話を続けた。

私はバスを降りた。

あれは何だったんだろう?

結局女は知らなかったわけではないようだ。

あえての通話だったのだ。


私は歩きながら、段々腹が立ってきた。

バスの中ではとにかく女に腹が立っていたが、

今はバス中全体に腹がたっていた。

隣に座ってたおばさんも、その隣に座ってたおじさんも皆寝たふりしていた。

バスの運転手も、気が弱い人なのか一度も注意することがなかった。

そして女は非常識にも喋り続けた。

その無関心さに腹が立って仕方がなかったのだ。

私が注意しても周りの人らは無関心だった。

そのことが無性に哀しかった。

私が子どものころは、もうちょっと社会がお節介だったように思う。

あんな人がいれば、絶対に口うるさいじじいとかがいて

「こらー!いつまでしゃべっとるー!」と一喝する人がいたものだ。

高校生の頃、地下鉄で友達同士で騒いでいたら、おじさんに「静かにしろ!!」と

怒られたこともあった。

今はみんな見て見ぬふり、か。

人がやさしくなったのか?

いいや。おそらくどうでもいいと思っているのだ。

面倒なことには巻き込まれたくないのだろう。

昔私達を一喝したじじいが懐かしかった。

そのときはくそじじいと思ったが、今はそのくそじじいの

優しさ、心の温かさを感じる。

私の勇気は虚しく空振りに終わった。

言わなきゃよかったな、と少し思い

そして、思いなおした。

やっぱり言ってよかった。

もし何も言わずに降りていたら、もっともっと後悔しただろう。

お節介と言われようと、意味がないと言われようと

私は自分が意味があると思えば、怖くてもやっていく、これからも。


物の性を尽くそう! by正馬

今私がチャレンジしていることは、

何かを切らしたときや壊れてしまった時、

すぐに買いに行くのではなく、何とかなくても生活できないかと、

試行錯誤してみる。という事を時々意識的にやっている。


私は知らぬ間に、無いものはすぐ金で買いに行く。という

習慣が身に染み込んでしまっていることに気が付いた。

トイレットペーパー、ノートも鉛筆も。洗剤も猫の餌も。

でも、それは国が豊かで、いつもいつも店にはふんだんに

商品が並んでいて、いつでもお金さえ出せば便利で快適な暮らしを

維持できることができるからだろう。

そしてそれが当たり前になっている。

でもそれは決して当たり前ではない。

大きな災害が起きれば、ライフラインも物流も止まり、

いくら備えてあっても、あっという間にその生活は行き詰る。

何もかも足りなくなる。

そう知ってはいても、今現在自分の周りで起こっているのでなければ

自分には関係のない話で終わってしまう。

何か事が起きない限りは、当たり前のように色んなものを購入しては消費しまくる生活を

決してやめようとはしないだろう。

でも時々は、思いがけず切らしたとき、慌てて買いに走る前に、

ちょっと立ち止まって考えてみる。

無いことを我慢して、あえて不便を感じながら暮らしてみる。

思いがけない代打が出てくるときもあるし、

自分でダンボールや針金で変わるものを作ったときもあった。

例えばテープのりを切らした時は、引き出しの奥にしまいこんであった

昔ながらのノリを使った。

手がべとつくし、使い勝手もテープのりにはかなわない。

でも、何年越しで使い切ることができた。

使い切ったらやっぱりテープのりを買いにいったけど。

そのチャレンジが何になるかと聞かれたら、自分でもよく分からない。

何かの目的でやっているわけではない。

ただ、何か事が起きて不便な生活を強いられるときも、

無い事ばかりを騒ぎ立てるような人にはなりたくないなぁと思う。

被災している方々には、そんなことくらいで何になるものか、と一蹴されるだろうけれども。


森田先生は物の性を尽くせ。とよく言った。

身近な物、水や紙切れ、といったものから、人がごみにすててしまうような物

も拾ってきて、色んなものに使ったそうだ。

人も然り。その一人一人に与えられた能力、性質を存分に発揮する事が生きる喜びだと

幸せだと、説いた。

ダライラマと森田先生

少し前だが、偶然な感じで「ダライラマ恋して」という紀行文を読んだ。

偶然というのもおかしな言い方だが、本当に偶然なのだ。

そのいきさつはこうだ。

ある方のブログを読んでいたら、そこにオススメ本として

たかのてるこさんの「ガンジス川でバタフライ」を上げていた。

面白そうだなと思い、図書館に借りに行った。

そしたら「ガンジス川..」はなかった。

ネットで著者について少し調べてみると、世界のちょっと変わった所

へ旅をしておられる。どれも面白そうだ。

何でもいいからその方の本を一冊読みたいと思い、その日図書館に

あったのが「ダライラマに恋して」だった。

とても読みやすくて、たかのさんのパワーが溢れ出ている

紀行文だ。

ダライラマに関しては薄っぺらな知識しかなかった私だが、

本を読んで、ダライラマさんについて、とてもよく知ることができた。

そして「チベット仏教」についてすごい興味を覚えた。

私の知っている仏教とは何かがぜんぜん違う。

本の中のチベット人は、たかのさんに言う。

「チベット仏教は宗教じゃない。自然科学だよ。」と。

私は、ん~???と衝撃を受けた。自然科学?!つまり真実を見つめる学問...

そして読めば読むほどそれは森田療法に似ている。

そう森田療法も自然科学だと言っていいと思う。

ダライラマが言う事や、

チベット人の心の中に深く浸透している思想。

それらは森田療法のそれと照らし合わせても、何もけんかしない。

私は普段からさまざまな思想や心理学などを紹介しているのを見ると、

「あ~そこは森田ではこうだな」、とか「そういう事いうから

余計に矛盾ができるんだよな~」と反射的に分析してしまう。

でもチベット仏教はそれがない。森田との矛盾がないのだ。


チベットの空は青が濃いそうだ。

その下でチベットの人たちは、謙虚に慎ましやかに朗らかにお互いを

思いやり、助け合って、とても自然に生きている。

まるで幸せであることが当たり前であるかのように...。


ダライラマは生まれ変わり生まれ変わりして、今14世。

その教えを受け継いでいる。


人は幸せになるために生まれてきている。

そして、誰にもその資格があり、その権利をもっている。

そして幸せな社会を作っていける。

チベットに行ったら、その事を心から信じることができるような気がした。

※ダライラマは亡命されて、今はチベットにはいない。

 現在は北インドのダラムサラという町におられる。

休息は仕事の転換にあり by森田正馬

「休息は仕事の転換にあり」という言葉が、森田療法の中にはある。

今日はそのことについて書いてみます。


私は仕事上、家を細切れに出たり入ったりしている。

10時に家を出て仕事をし、昼ごはんを食べに戻り、少し休憩して

また2時ごろ出る。といった感じに。

仕事が一つ終わって、あー次は2時までひと段落だ~!

と緊張が切れ、力が抜ける。昼休憩の時間にあれもやりたい、これもやれたらいいな

と思いつつも、家に帰って一息ついてしまうと、もうなかなか立ち上がれない。

予定していた事はほとんどできず、ゴロゴロしながらPCを触ったりして不毛に

過ごすことが多い。

そして午後の仕事に立つときはまた、よっこーらしょっ!!と

気合を入れなおさないとならない。実にしんどい。


そこで考えて、少し変えてみた。

休憩と思うから、気が抜けてしまう。

気が抜けてしまうともう何もやりたくないし

また数時間後にエンジンかけるのが大変。

そこで仕事と仕事の合間の時間を、休憩と思わないようにした。

一度帰ってくる。2時までは休憩じゃない。

自由という名の、仕事時間。

もう一度洗濯機を回す。

昼食を食べる。

夕食の献立を考える。

もちろん一息も入れる。

テレビも見る。疲れたらごろつく。

でも休憩ではない。気持ちを切らさない事で

どこまでもダラダラすることはなくなった。

おかげで午後の仕事もパッといけるようになった。

何なら、少し早く出て、郵便局とか寄っていくようになった。

ものすごい変わりようである。


午後に仕事が立て込むときもある。

そういう時は、夕食作りまでが仕事だ。

今までは夕方仕事から帰って来て、一息ついてしまうと

夕食の用意になかなか立てなかった。

今は違う。午後の仕事+夕食つくりまでが仕事時間だ。

そうするといったん帰り、コーヒーなど飲むが、

気持ちは夕食までいっているので、30分もすれば立ち上がる。


まあ、だいたい夕食食べてから立てなくなるけどね。

大抵後片付けは11時頃だ。

それでいいんです。

人間、一日の予定が済んで、ご飯食べておなかもふくれ。ビールも飲んだら

だらけるのが自然です。


私はこういう風に生活態度をちょこっと変えてみて、

アーこれはとても森田的だ!と思いました。

森田先生は、講演会など旅先から帰ってきても、あー疲れたーと座り込むことは

なかったそうです。

かばんを明け、お土産物などを取り出し、ひねくり回してみたり、留守中の

郵便物を開けて見たり、と気の向くままに目の前の事に手を出していると、

疲れた気持ちが、少しづつ落ち着き、次の活動の充電をする。

だから、どたーっと身体を休めることだけが、休息ではないよ。

細々した作業が気分転換になる場合もあるし、外の空気を吸いに歩くことで

大いに心身が休まるときもある。

と言うような事を「休息は仕事の転換にあり」と言われました。



プロフィール

六花

Author:六花
ブログへようこそ。
六花と申します。
10代の頃から神経質症に陥り
30代でうつになりました。
今は森田療法のおかげで、元気に暮らしております。
そんな体験からこのブログを始めました。
日本由来の森田療法を多くの方に知ってもらいたいと願っています。

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